【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑪(03/11)
メンバーのやえぞうです。
今回でリレーブログも最終回になります。
書きたいけれど、とても書けない話も多いのだけれど。
今回は書ける範囲でかなり個人的な思い、団体の代表としてではなく、私自身の本音を綴ってみようと思います。
長い話になりますが、良かったら読んでください。
東日本大震災から10年。
今週、我が家に1通の手紙が届きました。
震災で福島から流山に避難してきた友人からの手紙でした。
友人は臨月で流山にやってきて、ほどなく出産。
「流山に避難してきた家族に赤ちゃんが生まれた」
人づてにそう聞いた私は、知人に誘われるまま、何人かで交代しながら、そのご家庭にお食事を届ける活動を始めました。
自分の家族の食事を作るついで。週に1回程度。その程度のことなら。
赤ちゃんもいて、勝手知らぬ土地での子育ては大変だろう。
くらいの気持ちだったのですが。
手紙は当時その食事がとても有難かった、というお礼の手紙でした。
栄養とか、味とか、そういうことだけではなくて。
誰かが自分のために作ってくれた食事は、人との繋がりを感じさせるものであったのだそうです。
料理することと、食べること。
友人と私は、言葉ではなく、互いの手作業と味覚を通じて知り合い、繋がりを持ったのでした。
災害を前に。
被災した人としなかった人。
多くを失った人と、失わなかった人。
立場の違いは、時に語る言葉すら失って。
「頑張って」「大変だったね」「きっと大丈夫」
そんな言葉が全部空虚になってしまう時。
労りやケアを伝えるもの。
人と人を繋ぐのは、言語よりもっと深い身体の感覚なのだ。
そう私は感じました。
そして被災こそしませんでしたが、地震の数日後、我が流山には放射能を多量に含む雨が降り、街は一気にホットスポットになってしまいました。
仲の良かった友人も、何人も、ホットスポットでの子育ては嫌だと街を去りました。
去る友人と残る私。
お互い、かける言葉もなく。
互いへの本音を言えず、ただ「元気で」と。
残った家族も、放射能に対するスタンスの違いは明白で。
地元の野菜を食べるか、食べないか。
学校の水を飲むか、飲まないか。
子どもを外で遊ばせるか、遊ばせないか。
放射能を測るか、測らないか。
目にする情報はどれが正しいのか、皆目見当がつかず。
気持ちは「大丈夫」と「大丈夫じゃない」の間をふらふらと彷徨い。
まるでバベルの塔の逸話のように、人々は分断され、お互いのスタンスを計り合いながら、疑心暗鬼に口を噤み合ったのでした。
私が仲間たちと防災の活動を始めたのは、そんな頃。
もうね。私は本当に嫌だった。
疑い合い、それが高じて互いに憎しみ合うことが。
恐怖は人間を残酷にする、と本当に思い知った。
だから、そうじゃない発信がしたかった。
誰もが楽しく、安心して取り組める気軽な防災情報の発信をしよう。
違いを言い立て合わない、脅さない。
目にして、受け取った人がエンパワメントされるような。
「助けて」って、弱い自分をさらけ出せるような、そんな活動にしよう。
そう心に決めて、防災・減災の活動を始めて10年の月日が経ちました。
いつの間にか、街からはすっかり放射能の話題は無くなり。
いがみ合った日々が嘘のように穏やかな毎日。
と思いきや、9年目にやってきたのはコロナウィルスという災害。
正直、私は「またか」と思いました。
自粛警察と大丈夫マン。
強い言葉で非難し合う姿は、いつぞやの放射能騒ぎと同じアングル。
でも、私たちは前回学んだのです。
大切なのは、楽しく、安心して取り組める気軽な活動をすること。
自分にできることを少しね、すること。
受け取った人が、エンパワメントされるような、温かい労りを持ち合うこと。
私たちにとって、それが防災と男女共同参画の活動であった、ということでした。
排除ではなく、包摂を。
正義ではなく、想像力を。
眉根を寄せず、笑顔で。
生活者としてのリアルを胸に抱きつつ、絶望せずに「わたし」を主体的に生きたい。
手を取り合って、労り合って、焦らず、無理せず、今できることをしよう!
私が今、思うのは、そんなことです。
東日本大震災から10年のこの日。
メンバーの皆の今のリアルをブログに残せたことに、仲間に、活動を支えてくださった多くの人に感謝します。
最後まで読んでくださって、ありがとう。
今回でリレーブログも最終回になります。
書きたいけれど、とても書けない話も多いのだけれど。
今回は書ける範囲でかなり個人的な思い、団体の代表としてではなく、私自身の本音を綴ってみようと思います。
長い話になりますが、良かったら読んでください。
東日本大震災から10年。
今週、我が家に1通の手紙が届きました。
震災で福島から流山に避難してきた友人からの手紙でした。
友人は臨月で流山にやってきて、ほどなく出産。
「流山に避難してきた家族に赤ちゃんが生まれた」
人づてにそう聞いた私は、知人に誘われるまま、何人かで交代しながら、そのご家庭にお食事を届ける活動を始めました。
自分の家族の食事を作るついで。週に1回程度。その程度のことなら。
赤ちゃんもいて、勝手知らぬ土地での子育ては大変だろう。
くらいの気持ちだったのですが。
手紙は当時その食事がとても有難かった、というお礼の手紙でした。
栄養とか、味とか、そういうことだけではなくて。
誰かが自分のために作ってくれた食事は、人との繋がりを感じさせるものであったのだそうです。
料理することと、食べること。
友人と私は、言葉ではなく、互いの手作業と味覚を通じて知り合い、繋がりを持ったのでした。
災害を前に。
被災した人としなかった人。
多くを失った人と、失わなかった人。
立場の違いは、時に語る言葉すら失って。
「頑張って」「大変だったね」「きっと大丈夫」
そんな言葉が全部空虚になってしまう時。
労りやケアを伝えるもの。
人と人を繋ぐのは、言語よりもっと深い身体の感覚なのだ。
そう私は感じました。
そして被災こそしませんでしたが、地震の数日後、我が流山には放射能を多量に含む雨が降り、街は一気にホットスポットになってしまいました。
仲の良かった友人も、何人も、ホットスポットでの子育ては嫌だと街を去りました。
去る友人と残る私。
お互い、かける言葉もなく。
互いへの本音を言えず、ただ「元気で」と。
残った家族も、放射能に対するスタンスの違いは明白で。
地元の野菜を食べるか、食べないか。
学校の水を飲むか、飲まないか。
子どもを外で遊ばせるか、遊ばせないか。
放射能を測るか、測らないか。
目にする情報はどれが正しいのか、皆目見当がつかず。
気持ちは「大丈夫」と「大丈夫じゃない」の間をふらふらと彷徨い。
まるでバベルの塔の逸話のように、人々は分断され、お互いのスタンスを計り合いながら、疑心暗鬼に口を噤み合ったのでした。
私が仲間たちと防災の活動を始めたのは、そんな頃。
もうね。私は本当に嫌だった。
疑い合い、それが高じて互いに憎しみ合うことが。
恐怖は人間を残酷にする、と本当に思い知った。
だから、そうじゃない発信がしたかった。
誰もが楽しく、安心して取り組める気軽な防災情報の発信をしよう。
違いを言い立て合わない、脅さない。
目にして、受け取った人がエンパワメントされるような。
「助けて」って、弱い自分をさらけ出せるような、そんな活動にしよう。
そう心に決めて、防災・減災の活動を始めて10年の月日が経ちました。
いつの間にか、街からはすっかり放射能の話題は無くなり。
いがみ合った日々が嘘のように穏やかな毎日。
と思いきや、9年目にやってきたのはコロナウィルスという災害。
正直、私は「またか」と思いました。
自粛警察と大丈夫マン。
強い言葉で非難し合う姿は、いつぞやの放射能騒ぎと同じアングル。
でも、私たちは前回学んだのです。
大切なのは、楽しく、安心して取り組める気軽な活動をすること。
自分にできることを少しね、すること。
受け取った人が、エンパワメントされるような、温かい労りを持ち合うこと。
私たちにとって、それが防災と男女共同参画の活動であった、ということでした。
排除ではなく、包摂を。
正義ではなく、想像力を。
眉根を寄せず、笑顔で。
生活者としてのリアルを胸に抱きつつ、絶望せずに「わたし」を主体的に生きたい。
手を取り合って、労り合って、焦らず、無理せず、今できることをしよう!
私が今、思うのは、そんなことです。
東日本大震災から10年のこの日。
メンバーの皆の今のリアルをブログに残せたことに、仲間に、活動を支えてくださった多くの人に感謝します。
最後まで読んでくださって、ありがとう。
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【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑩
メンバーのあっこです。
東日本大震災から10年となり、関連するテレビ番組がたくさん放送されています。その中で、3月6日にNHK総合で放送された『津波避難』をみました。
津波を逃れて助かった方と亡くなった方、何が生死を分けたのか地震後の行動を詳細に調査した内容でした。
東北の太平洋岸は津波の被害をこれまでも受けているから、津波が来るかもしれないな、逃げたほうがいいかなと考えていた人は多かったようです。
ただ、最終的に逃げた人と逃げなかった人の行動の違いに、『率先避難者』と言われる少数の人がいたことが分かってきました。率先避難者の行動や呼びかけによって、それに引っ張られるように避難をして無事だった方が多くいるそうです。
もし、自分が災害に遭ったら…と想像してみると、確かに周りの人の行動を見て自分も行動を起こすかもしれないと感じました。
人の行動は、思っているよりもお互いに影響しあっていて、自分がどう行動するかが他の人の行動を左右することがあり得るのです。だから、自分が行動することで周りの人を誰かひとりでも救えるかもしれない。そう思うと、最初の一歩が踏み出せそうな気がしませんか。
「逃げよう」と声を上げられる人になれれば良いですが、自分ができない可能性もあるから、声を上げられる人を見つけておいて、その人に頼んでおくということでもいいかもしれません。
また、番組では、先生の指示で小学校の子どもたちが高台に避難し、それに保護者達がついていったことで、知り合いや声をかけられた人たちの多くが高台へ避難して無事だったという地域のことを取り上げていました。子どもたちは、訓練や事前の準備に素直に従って行動することができます。率先避難を促してくれるような存在は、地域の子どもたちではないかと思いました。
この番組は津波の被害を取り上げていますが、どんな災害にも当てはまることだと思います。私たちが住む流山は江戸川沿いに位置するため、大雨による水害が発生する可能性が高いでしょう。
想定以上の被害があるかもしれないと考えて家族で話し合ったり、準備をしておくことはもちろん必要です。その上で、「何かあったら真っ先に逃げようって声を上げてね」と子どもたちに丁寧に伝え続けていくことが、子ども自身や地域全体を守ることではないでしょうか。
東日本大震災から10年となり、関連するテレビ番組がたくさん放送されています。その中で、3月6日にNHK総合で放送された『津波避難』をみました。
津波を逃れて助かった方と亡くなった方、何が生死を分けたのか地震後の行動を詳細に調査した内容でした。
東北の太平洋岸は津波の被害をこれまでも受けているから、津波が来るかもしれないな、逃げたほうがいいかなと考えていた人は多かったようです。
ただ、最終的に逃げた人と逃げなかった人の行動の違いに、『率先避難者』と言われる少数の人がいたことが分かってきました。率先避難者の行動や呼びかけによって、それに引っ張られるように避難をして無事だった方が多くいるそうです。
もし、自分が災害に遭ったら…と想像してみると、確かに周りの人の行動を見て自分も行動を起こすかもしれないと感じました。
人の行動は、思っているよりもお互いに影響しあっていて、自分がどう行動するかが他の人の行動を左右することがあり得るのです。だから、自分が行動することで周りの人を誰かひとりでも救えるかもしれない。そう思うと、最初の一歩が踏み出せそうな気がしませんか。
「逃げよう」と声を上げられる人になれれば良いですが、自分ができない可能性もあるから、声を上げられる人を見つけておいて、その人に頼んでおくということでもいいかもしれません。
また、番組では、先生の指示で小学校の子どもたちが高台に避難し、それに保護者達がついていったことで、知り合いや声をかけられた人たちの多くが高台へ避難して無事だったという地域のことを取り上げていました。子どもたちは、訓練や事前の準備に素直に従って行動することができます。率先避難を促してくれるような存在は、地域の子どもたちではないかと思いました。
この番組は津波の被害を取り上げていますが、どんな災害にも当てはまることだと思います。私たちが住む流山は江戸川沿いに位置するため、大雨による水害が発生する可能性が高いでしょう。
想定以上の被害があるかもしれないと考えて家族で話し合ったり、準備をしておくことはもちろん必要です。その上で、「何かあったら真っ先に逃げようって声を上げてね」と子どもたちに丁寧に伝え続けていくことが、子ども自身や地域全体を守ることではないでしょうか。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑨
メンバーのあやっぺ。です。
10年前の3月11日は都内の児童館で仕事をしており、他職場に電話で打ち合わせをしている最中でした。
初めはお互いに「地震ですかね?」と話を続けていましたが、揺れが大きくなり、すぐに電話を切りました。
学童クラブ担当職員は、降園途中の子どもがいるかもしれないと学校方面へ走り、児童館担当の私は、施設内にいた乳幼児親子を安全な場所に避難誘導しました。
ある子は、お母さんにしがみつきながら児童館のおもちゃを握りしめていたので、その子にとって安心材料になるかな?とそのまま貸していました。1ヶ月以上過ぎてからおもちゃが返却された時、保護者の方から「寝るときも肌身離さなかった、子どもにとってこのおもちゃがあって良かった」と聞きました。
また、強い揺れが収まると近所の高校生の男の子が「家で1人で居たくないから」避難してきたのでその子の親に児童館に避難していることを連絡し、迎えを待ちました。児童館が安心できる場所と思ってくれたことを嬉しく思いました。
私自身は自宅にいる療養中の母が心配でしたが、その日は偶然にも父は仕事が休みだったので大丈夫だろうと思い、とりあえず無事なことと、職場で泊まりになることを連絡しました。
また、宮城に住んでいる親戚の安否が気になりましたが、今、連絡すると通信がパンクしてしまうと思い連絡は我慢しました。
夜になると、近くの学校が避難所になっていたので、翌朝に役所の人が来るまで職員が交代で避難所の手伝いに行きました。
その後は職場も落ち着いたので小さい子どもがいる職員から順次帰宅し、私は都内で仕事をしている妹と合流してから帰りました。
■3.11以降の出来事
・ 阪神淡路大震災後、心配性の母が防災グッズを用意していたので、どうにかなるかな?と楽観的だった。(備えがあるだけで安心感が違う。)
・宮城に住んでいる従兄弟は、1歳未満の子どもがいたので、その子が好きなキャラクターのお菓子類を中心に物資を送った。
・メモ帳に連絡先を記入して持ち歩き、時間がある時に母に代わって知り合いの安否確認の連絡を取った。
・2ヶ月後のGWに仙台へ行き、親戚の家を父と回った。
・岩手へ災害ボランティアに行った。
・自宅が半壊し、建て直しが急遽必要になった。(罹災証明を多めにもらっていたことで、何度も役所に行かなくて済んだ。)
・義援金は、震災から約3年後に振り込まれた。(平等に分けるために時間がかかったと聞いた。)
■現在
・子どもが産まれ、今は私が傍にいることも多いが、今後、1人で留守番中、外出中に災害が起きることもある。
・家にいる時には、寝室にしている部屋を何も置かないようにしているので、揺れを感じたらとりあえずそこへ逃げるように話している。
・先月、久しぶりに大きな揺れを感じたが、安全な場所を確保していたので、慌てずに対応ができたので、日々のちょっとした事が大切だと実感した。
私は現在、都内で仕事をしているので、災害があった時にはすぐには帰れません。なので、子どもが小さいうちからその事を考え、ご近所づきあいを大切にしてきました。
もし、災害が起こった当日に迎えに行けなかった時を考え、保育園・学童・小学校にその場合の対応を確認しています。
日々、情報も更新されていくのでアップデートしながら防災を学んでいけたらと思っています。
10年前の3月11日は都内の児童館で仕事をしており、他職場に電話で打ち合わせをしている最中でした。
初めはお互いに「地震ですかね?」と話を続けていましたが、揺れが大きくなり、すぐに電話を切りました。
学童クラブ担当職員は、降園途中の子どもがいるかもしれないと学校方面へ走り、児童館担当の私は、施設内にいた乳幼児親子を安全な場所に避難誘導しました。
ある子は、お母さんにしがみつきながら児童館のおもちゃを握りしめていたので、その子にとって安心材料になるかな?とそのまま貸していました。1ヶ月以上過ぎてからおもちゃが返却された時、保護者の方から「寝るときも肌身離さなかった、子どもにとってこのおもちゃがあって良かった」と聞きました。
また、強い揺れが収まると近所の高校生の男の子が「家で1人で居たくないから」避難してきたのでその子の親に児童館に避難していることを連絡し、迎えを待ちました。児童館が安心できる場所と思ってくれたことを嬉しく思いました。
私自身は自宅にいる療養中の母が心配でしたが、その日は偶然にも父は仕事が休みだったので大丈夫だろうと思い、とりあえず無事なことと、職場で泊まりになることを連絡しました。
また、宮城に住んでいる親戚の安否が気になりましたが、今、連絡すると通信がパンクしてしまうと思い連絡は我慢しました。
夜になると、近くの学校が避難所になっていたので、翌朝に役所の人が来るまで職員が交代で避難所の手伝いに行きました。
その後は職場も落ち着いたので小さい子どもがいる職員から順次帰宅し、私は都内で仕事をしている妹と合流してから帰りました。
■3.11以降の出来事
・ 阪神淡路大震災後、心配性の母が防災グッズを用意していたので、どうにかなるかな?と楽観的だった。(備えがあるだけで安心感が違う。)
・宮城に住んでいる従兄弟は、1歳未満の子どもがいたので、その子が好きなキャラクターのお菓子類を中心に物資を送った。
・メモ帳に連絡先を記入して持ち歩き、時間がある時に母に代わって知り合いの安否確認の連絡を取った。
・2ヶ月後のGWに仙台へ行き、親戚の家を父と回った。
・岩手へ災害ボランティアに行った。
・自宅が半壊し、建て直しが急遽必要になった。(罹災証明を多めにもらっていたことで、何度も役所に行かなくて済んだ。)
・義援金は、震災から約3年後に振り込まれた。(平等に分けるために時間がかかったと聞いた。)
■現在
・子どもが産まれ、今は私が傍にいることも多いが、今後、1人で留守番中、外出中に災害が起きることもある。
・家にいる時には、寝室にしている部屋を何も置かないようにしているので、揺れを感じたらとりあえずそこへ逃げるように話している。
・先月、久しぶりに大きな揺れを感じたが、安全な場所を確保していたので、慌てずに対応ができたので、日々のちょっとした事が大切だと実感した。
私は現在、都内で仕事をしているので、災害があった時にはすぐには帰れません。なので、子どもが小さいうちからその事を考え、ご近所づきあいを大切にしてきました。
もし、災害が起こった当日に迎えに行けなかった時を考え、保育園・学童・小学校にその場合の対応を確認しています。
日々、情報も更新されていくのでアップデートしながら防災を学んでいけたらと思っています。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑧
メンバーのあさはです。
3/11は、当時3歳だったこどもを連れてファミレスで友人とお茶をしていました。
地震がきた時、嫌な予感がしたのですが、たいして揺れていないので大丈夫でしょうと言いながら、おしゃべりを続けていました。
しかし、揺れが大きくなり、これは大きい、普通の地震ではない!と思いつつも頭の中は真っ白…その場で立ったまま、固まっていました。
お店の中からは、「火を消して!」という声が聞こえてきました。
当然、もう家に帰りましょうという話になりました。うちは、車で出かけたので駐車場に向かったのですが、私の友人の一人が電車で来ていたので、ひとまず私の家に行って様子を見てから駅まで乗せていくことにしました。
車に乗ったら、なんだかハンドルがとられる思いがして、また強い揺れを感じました。このまま運転はきついと思って、車を止めました。すごく怖かったです。そのあと、再び弱い揺れを感じながらも、なんとか家に到着しました。
家に帰って、電気、水道、ガスを確認。大丈夫でほっとしました。そのあと、テレビをつけると津波の風景がうつされていて、ただ事ではないと思いました。普段、動き回っているこどもも、椅子にすわってじっとしていて、いつもと
違う様子だったので何かを感じていたんだなと思います。そして、こどもは疲れていつもより早く寝てしまいました。
友人が住んでいたのは船橋だったので、電車の様子を調べてみたら止まっていることがわかり、いつまでも運転が再開されないため、うちに泊まることにしました。
地震で夕食を作る気力がなくなり、その日の夕食は備蓄してあった防災食で済ませました。
私は、身内と群馬の友人にだけメールや電話連絡をしました。電話、特に携帯電話はなかなかつながりませんでした。メールは、遅れて受信することができました。
阪神大震災の時、大阪の友人に数日電話をしてもつながらなかったため、今回もあんまり電話すると混線するだろうと思ったのでそれだけにしておきました。
夫からは、周りの状況を見て無理に帰宅せず会社で過ごすと決めた連絡があり、次の日の昼頃に家に帰ってきました。友人も電車が動いたことを知って、無事家に帰りました。
大変でしたが、もし、この時に子連れで都内に出かけていたら、どうなっていただろうかと思うとぞっとしました。
今思うと、近場へのお出かけだったので、比較的すんなり家に帰れて、守られていたなと思いました。
3/11は、当時3歳だったこどもを連れてファミレスで友人とお茶をしていました。
地震がきた時、嫌な予感がしたのですが、たいして揺れていないので大丈夫でしょうと言いながら、おしゃべりを続けていました。
しかし、揺れが大きくなり、これは大きい、普通の地震ではない!と思いつつも頭の中は真っ白…その場で立ったまま、固まっていました。
お店の中からは、「火を消して!」という声が聞こえてきました。
当然、もう家に帰りましょうという話になりました。うちは、車で出かけたので駐車場に向かったのですが、私の友人の一人が電車で来ていたので、ひとまず私の家に行って様子を見てから駅まで乗せていくことにしました。
車に乗ったら、なんだかハンドルがとられる思いがして、また強い揺れを感じました。このまま運転はきついと思って、車を止めました。すごく怖かったです。そのあと、再び弱い揺れを感じながらも、なんとか家に到着しました。
家に帰って、電気、水道、ガスを確認。大丈夫でほっとしました。そのあと、テレビをつけると津波の風景がうつされていて、ただ事ではないと思いました。普段、動き回っているこどもも、椅子にすわってじっとしていて、いつもと
違う様子だったので何かを感じていたんだなと思います。そして、こどもは疲れていつもより早く寝てしまいました。
友人が住んでいたのは船橋だったので、電車の様子を調べてみたら止まっていることがわかり、いつまでも運転が再開されないため、うちに泊まることにしました。
地震で夕食を作る気力がなくなり、その日の夕食は備蓄してあった防災食で済ませました。
私は、身内と群馬の友人にだけメールや電話連絡をしました。電話、特に携帯電話はなかなかつながりませんでした。メールは、遅れて受信することができました。
阪神大震災の時、大阪の友人に数日電話をしてもつながらなかったため、今回もあんまり電話すると混線するだろうと思ったのでそれだけにしておきました。
夫からは、周りの状況を見て無理に帰宅せず会社で過ごすと決めた連絡があり、次の日の昼頃に家に帰ってきました。友人も電車が動いたことを知って、無事家に帰りました。
大変でしたが、もし、この時に子連れで都内に出かけていたら、どうなっていただろうかと思うとぞっとしました。
今思うと、近場へのお出かけだったので、比較的すんなり家に帰れて、守られていたなと思いました。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑦
メンバーのこゆきです。私も、10年前の3.11当日を思い出してみました。
■ 当日
2011年3月11日、私は職場の上司2人と茨城にある大学に出張中で、仕事の打ち合わせをしているとき、震災にあいました。当時、私は第一子の妊娠3ヶ月。上司や打ち合わせ先の先生方が気遣ってくれ、屋外では寒いだろうと大学が用意した大型バスの中に優先して待機させてくださったのを覚えています。
そして、揺れが収まってきた夕方5時頃、大学の建物には戻らないように指示がありました。すると、車の鍵を持って建物の外にでた打ち合わせ先の先生が、車で避難しましょうと一緒に連れ出してくださいました。
私たちを自家用車に乗せ、途中、ご自宅にいるお母様が無事なのを確認し、その後、妊娠中の私を優先して流山市の私の自宅に送ってくださるというのです。
帰宅した時には都内勤務の夫はまだ帰っておらず、眠れずにしばらく待っていると夫は徒歩で帰宅。深夜0時半頃でした。クツはボロボロ、体は疲労困憊でした。
上司たちは、当日中に東京都内に戻るのは難しそうだと判断し、その後、近くのホテルに宿泊して翌朝帰宅したそうです。上司はもともと防災の知識が豊富で、とても落ち着いており、心強かったです。
車で送ってくださった先生には、ただただ感謝しかありません。もし車で送っていただかなかったら、どうやって、いったいいつ自宅に帰れたのでしょう。
■当時、特に印象に残ったこと
・地震で建物の外へ避難出るときは、車と家の鍵だけは持って出よう(自宅以外で災害に遭ったとき、自宅に移動する手段と自宅に入るために必要)
・自家用車への給油は空になる前に早めに行う(日頃から意識しよう)
・腹ごしらえで少し元気になれる。
・防災についての知識や備えが、被災時の落ち着きと、とっさの行動を可能にする。
・助けてもらったことを忘れず、私ができることで社会に恩返ししたい。
■10年前からの我が家の変化
・勤務先を変え、職住近接になった。都内勤務(片道1時間)から、自家用車で20分の場所にし、何かあっても徒歩で帰ることができる。
・流山子育てプロジェクトのメンバーとして防災に取り組むようになった。
・メンバーになったことによって、防災について自ら学び実践するようになってきた。
・親が関心を持つことで、子ども(小学生)も興味を持つようになり、自分の防災バッグを準備するようになった。
・夫が少しずつ、防災グッズを購入するようになった。例えば、ポーダブルソーラーパネルで100V電源が確保できる装置など、セールを利用して購入しておく等。
・私も少しずつ、防災グッズや備蓄品を購入するようになった。ヘッドライト、乾電池の予備、非常用トイレ(家族分)、寒さ対策の銀色シート(家族分)等、一気に買えないけれど、数が必要なものは少しずつ購入中。
・自宅に太陽光発電と蓄電池を設置することにした。自家発電と災害時の電源確保と長期的な経済性もあり、自然エネルギー発電にもちょっと貢献できる。
■備えは、できる範囲で、少しずつ、日頃から
メンバーになったばかりの時は、何から手をつけてよいのかわからなくてどうしようと思っていましたが、「できる範囲で、少しずつ、日頃から」という私たちの活動スタンスを意識するようになり、負担なく自然に防災に取り組むようになってきたと感じています。
普段できないことは災害時にいきなりできない。
だから、普段からできることを増やしていきたい。日頃できる防災を知ってほしい。
これからも、メンバーとともに、小さな活動ひとつひとつを積み重ねていきたいと思います。
■ 当日
2011年3月11日、私は職場の上司2人と茨城にある大学に出張中で、仕事の打ち合わせをしているとき、震災にあいました。当時、私は第一子の妊娠3ヶ月。上司や打ち合わせ先の先生方が気遣ってくれ、屋外では寒いだろうと大学が用意した大型バスの中に優先して待機させてくださったのを覚えています。
そして、揺れが収まってきた夕方5時頃、大学の建物には戻らないように指示がありました。すると、車の鍵を持って建物の外にでた打ち合わせ先の先生が、車で避難しましょうと一緒に連れ出してくださいました。
私たちを自家用車に乗せ、途中、ご自宅にいるお母様が無事なのを確認し、その後、妊娠中の私を優先して流山市の私の自宅に送ってくださるというのです。
帰宅した時には都内勤務の夫はまだ帰っておらず、眠れずにしばらく待っていると夫は徒歩で帰宅。深夜0時半頃でした。クツはボロボロ、体は疲労困憊でした。
上司たちは、当日中に東京都内に戻るのは難しそうだと判断し、その後、近くのホテルに宿泊して翌朝帰宅したそうです。上司はもともと防災の知識が豊富で、とても落ち着いており、心強かったです。
車で送ってくださった先生には、ただただ感謝しかありません。もし車で送っていただかなかったら、どうやって、いったいいつ自宅に帰れたのでしょう。
■当時、特に印象に残ったこと
・地震で建物の外へ避難出るときは、車と家の鍵だけは持って出よう(自宅以外で災害に遭ったとき、自宅に移動する手段と自宅に入るために必要)
・自家用車への給油は空になる前に早めに行う(日頃から意識しよう)
・腹ごしらえで少し元気になれる。
・防災についての知識や備えが、被災時の落ち着きと、とっさの行動を可能にする。
・助けてもらったことを忘れず、私ができることで社会に恩返ししたい。
■10年前からの我が家の変化
・勤務先を変え、職住近接になった。都内勤務(片道1時間)から、自家用車で20分の場所にし、何かあっても徒歩で帰ることができる。
・流山子育てプロジェクトのメンバーとして防災に取り組むようになった。
・メンバーになったことによって、防災について自ら学び実践するようになってきた。
・親が関心を持つことで、子ども(小学生)も興味を持つようになり、自分の防災バッグを準備するようになった。
・夫が少しずつ、防災グッズを購入するようになった。例えば、ポーダブルソーラーパネルで100V電源が確保できる装置など、セールを利用して購入しておく等。
・私も少しずつ、防災グッズや備蓄品を購入するようになった。ヘッドライト、乾電池の予備、非常用トイレ(家族分)、寒さ対策の銀色シート(家族分)等、一気に買えないけれど、数が必要なものは少しずつ購入中。
・自宅に太陽光発電と蓄電池を設置することにした。自家発電と災害時の電源確保と長期的な経済性もあり、自然エネルギー発電にもちょっと貢献できる。
■備えは、できる範囲で、少しずつ、日頃から
メンバーになったばかりの時は、何から手をつけてよいのかわからなくてどうしようと思っていましたが、「できる範囲で、少しずつ、日頃から」という私たちの活動スタンスを意識するようになり、負担なく自然に防災に取り組むようになってきたと感じています。
普段できないことは災害時にいきなりできない。
だから、普段からできることを増やしていきたい。日頃できる防災を知ってほしい。
これからも、メンバーとともに、小さな活動ひとつひとつを積み重ねていきたいと思います。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑥
こんばんは、メンバーのきみすけです。
2011.3.11 、私もこの日の出来事は忘れることはないと思います。
生後3ヶ月の息子を我が家に友人が見に来てくれていました。お昼を一緒に食べて少しまったりしていた所に、経験したことのない激しい揺れで私は気が動転してパニック状態に!しかし、息子を抱っこしていた友人の「落ち着いて」の一言で我にかえりました。
テーブルの下で揺れがおさまるのを待ち、しばらくしてから部屋を出て、駐車場にとめていた車に乗っては降り…を繰り返していました。友人が居てくれた間は少しは不安も和らいでいましたが、友人が帰った後はまた不安に襲われました。
当時は埼玉県に住んでいました。夫や親とも連絡が取れないし、仮に避難するときはどこへ行ったらいいかも分からなく、ただただいつ帰るか分からない夫を待つ不安は今でも忘れられません。夫は都内に通勤していて、その日はセミナーで社外に出ていました。夫と電話が通じたのは夕方過ぎでした。セミナー終了後のホテルのロビーで5時間ほど過ごし、水だけは支給されたようです。夜中の1時くらいに地下鉄が動き出したので行ける所まで乗り、その後は徒歩で1時間ほどで自宅に着きましたが夫も歩き疲れていました。連絡はありましたが余震が続くなか不安な気持ちで過ごしました。
私は夫が仕事で居ない日中1人で息子と一緒に過ごすのは不安があり、実家に一週間ほど帰省しましたが、実家のある地域では計画停電が行われ、息子が生後3ヶ月だったため生活リズムに慣れずに大変でした。その後、息子が3歳の時に流山に引っ越し、4年後には娘が生まれました。
震災が起こった頃の私は、地震後すぐに外に飛び出してしまったし、その時住んでいた近所は道も狭くブロック塀が多い道も多かった気がします。今考えると恐ろしいことですが、あの時の恐怖や不安があったからこそ、子育てをしている家族にも防災の情報や知識を知って欲しいと思っています。
流山子育てプロジェクトに参加し防災の知識を得たり活動を通していろいろと学びました。不安なことや心配ごとを聞いてもらえたり、助け合える仲間がいることは、本当に心強いです。年2回提唱している「防災エコナイト」でも、子どもたちと体験を通して考える大切さを学び、家族で共通認識することで夫も一緒に考えてくれるようになりました。
4月からまた新たな環境に身を置く子どもたちも多いと思います。
保育園・幼稚園・小学校はまだ親の目が届きやすいと思いますが、中学・高校となると今住んでる地域を越えて通学しなければならない場合もあると思います。
改めて、通学路や学校の周りの環境など子どもと一緒に考えて欲しいです。
災害でおきたことを話せる時が来たら、話せる人に、話をしていくことは、もちろん辛いことを思い出し酷かもしれません。
でも、そのことが災害を風化させないことに繋がると思います。
子どもの成長と共に、流山子育てプロジェクトの活動を通して上の世代の方々や若い世代への橋渡しや繋げていくことも大切な役割だと思います。メンバーと一緒に成長していきたいと思います。
2011.3.11 、私もこの日の出来事は忘れることはないと思います。
生後3ヶ月の息子を我が家に友人が見に来てくれていました。お昼を一緒に食べて少しまったりしていた所に、経験したことのない激しい揺れで私は気が動転してパニック状態に!しかし、息子を抱っこしていた友人の「落ち着いて」の一言で我にかえりました。
テーブルの下で揺れがおさまるのを待ち、しばらくしてから部屋を出て、駐車場にとめていた車に乗っては降り…を繰り返していました。友人が居てくれた間は少しは不安も和らいでいましたが、友人が帰った後はまた不安に襲われました。
当時は埼玉県に住んでいました。夫や親とも連絡が取れないし、仮に避難するときはどこへ行ったらいいかも分からなく、ただただいつ帰るか分からない夫を待つ不安は今でも忘れられません。夫は都内に通勤していて、その日はセミナーで社外に出ていました。夫と電話が通じたのは夕方過ぎでした。セミナー終了後のホテルのロビーで5時間ほど過ごし、水だけは支給されたようです。夜中の1時くらいに地下鉄が動き出したので行ける所まで乗り、その後は徒歩で1時間ほどで自宅に着きましたが夫も歩き疲れていました。連絡はありましたが余震が続くなか不安な気持ちで過ごしました。
私は夫が仕事で居ない日中1人で息子と一緒に過ごすのは不安があり、実家に一週間ほど帰省しましたが、実家のある地域では計画停電が行われ、息子が生後3ヶ月だったため生活リズムに慣れずに大変でした。その後、息子が3歳の時に流山に引っ越し、4年後には娘が生まれました。
震災が起こった頃の私は、地震後すぐに外に飛び出してしまったし、その時住んでいた近所は道も狭くブロック塀が多い道も多かった気がします。今考えると恐ろしいことですが、あの時の恐怖や不安があったからこそ、子育てをしている家族にも防災の情報や知識を知って欲しいと思っています。
流山子育てプロジェクトに参加し防災の知識を得たり活動を通していろいろと学びました。不安なことや心配ごとを聞いてもらえたり、助け合える仲間がいることは、本当に心強いです。年2回提唱している「防災エコナイト」でも、子どもたちと体験を通して考える大切さを学び、家族で共通認識することで夫も一緒に考えてくれるようになりました。
4月からまた新たな環境に身を置く子どもたちも多いと思います。
保育園・幼稚園・小学校はまだ親の目が届きやすいと思いますが、中学・高校となると今住んでる地域を越えて通学しなければならない場合もあると思います。
改めて、通学路や学校の周りの環境など子どもと一緒に考えて欲しいです。
災害でおきたことを話せる時が来たら、話せる人に、話をしていくことは、もちろん辛いことを思い出し酷かもしれません。
でも、そのことが災害を風化させないことに繋がると思います。
子どもの成長と共に、流山子育てプロジェクトの活動を通して上の世代の方々や若い世代への橋渡しや繋げていくことも大切な役割だと思います。メンバーと一緒に成長していきたいと思います。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて⑤
こんにちは!メンバーのあきゅです。
人生において、あの時に自分がどこにいたか、何をしていたか、ハッキリと覚えている出来事って、あまり多くないと思います。
そのうちのひとつが、10年前の3月11日。
長男がまだ年少だった頃、普段幼稚園バスのお迎えの時間に次男三男が昼寝している場合は、彼らを寝かせたまま、バス停まで迎えに行くことが多いのですが、(分かっています、本当は良くないことでしたよね)
その日は暖かかったので、バスを降りたらみんなで公園遊びになるだろうなーと思い、まだ眠たそうな次男三男を起こして三男はおんぶ、次男は抱っこで外に出ました。
そして、バスが到着してほどなく、地震の発生。
ジャングルジムや滑り台にいた子ども達をママたちが慌てておろし、公園の中央に集めました。揺れがおさまってからも何度も余震がくるので、同じバス停のママ達で暗くなるギリギリまで公園にいたことを覚えています。
一人じゃない心強さがありましたが、都内に勤める夫とは連絡がつかず、ネットで見る情報は錯綜していて、混乱しました。
家に帰ると、マンション1階にある自宅は幸いなことに、何かが倒れたというような被害はなく、少しホッとしました。その間も、ママ友達とメールで情報交換。夜はうちに来てもいいからね!って言ってくれた友達もいました。
やっと夫と連絡がついたあとは、とにかく、この子達を守らなきゃ…と言う気持ちと、
私がオロオロしていたら子ども達が不安になるとおもい、「とにかく、今日はお洋服で寝よう!」とか、
「枕元に靴を置いておこう!」とかありったけの知識を、笑顔で、子ども達に話したのを覚えています。
(でも、現在、中2になった長男の記憶は、『ママに怖い顔で「夜中にお出かけすることになったら、ママの手を絶対離しちゃダメ!」って言われた』と言うものでした。)
帰宅困難者となった夫がいない今、0歳の三男をおんぶ、2歳の次男を抱っこ。
4歳の長男は手をひいて歩かせることになるだろう…
漠然と考えていた私は、ひたすら、長男の荷物に名前を書いたのを覚えています。
もし、手が離れてしまったら…とにかく、すぐに見つけられる状態にしておかなきゃ…
テレビでは、気仙沼で起きていた津波火災の様子が繰り返し流れていました。
急がなきゃ、名前書かなきゃ、何故かその記憶は鮮明にあります。
東日本大震災では、私たちが住む流山は大きな被害はありませんでした。
福島第二原発の影響で、ホットスポットと呼ばれる地域として、数年間は見えない何かに怯える時間はありましたが、
家も職場も家族も失うことはなかった。でもそれは、単にラッキーだっただけなのです。
その後、NKPのメンバーになって防災のことを勉強し、考えるようになり、人との繋がりや、ご近所さんとの関わり方を改めて考えるようになりました。
そして、自治会の世帯アンケートに一言、「子どもが小さいので、有事の時は、手を貸していただきたい」と書きました。
誰かに助けて欲しいと言えることは、自分にとっての最大の防災なのだと気がついたのです。
わたしが思う災害への備えのひとつは、ご近所さんや職場の方とのコミュニケーションです。
どこで被災するか分からないからこそ、自分や家族にとって身近な人と共助しあえることが大切なのだと思います。
自宅で被災したら。
職場で被災したら。
外出先で被災したら。
その時、夫やパートナーは?
子ども達は?
ぜひ、日頃からのコミュニケーションを大切に「助け合える」関係を築いておくことをオススメします。
人生において、あの時に自分がどこにいたか、何をしていたか、ハッキリと覚えている出来事って、あまり多くないと思います。
そのうちのひとつが、10年前の3月11日。
長男がまだ年少だった頃、普段幼稚園バスのお迎えの時間に次男三男が昼寝している場合は、彼らを寝かせたまま、バス停まで迎えに行くことが多いのですが、(分かっています、本当は良くないことでしたよね)
その日は暖かかったので、バスを降りたらみんなで公園遊びになるだろうなーと思い、まだ眠たそうな次男三男を起こして三男はおんぶ、次男は抱っこで外に出ました。
そして、バスが到着してほどなく、地震の発生。
ジャングルジムや滑り台にいた子ども達をママたちが慌てておろし、公園の中央に集めました。揺れがおさまってからも何度も余震がくるので、同じバス停のママ達で暗くなるギリギリまで公園にいたことを覚えています。
一人じゃない心強さがありましたが、都内に勤める夫とは連絡がつかず、ネットで見る情報は錯綜していて、混乱しました。
家に帰ると、マンション1階にある自宅は幸いなことに、何かが倒れたというような被害はなく、少しホッとしました。その間も、ママ友達とメールで情報交換。夜はうちに来てもいいからね!って言ってくれた友達もいました。
やっと夫と連絡がついたあとは、とにかく、この子達を守らなきゃ…と言う気持ちと、
私がオロオロしていたら子ども達が不安になるとおもい、「とにかく、今日はお洋服で寝よう!」とか、
「枕元に靴を置いておこう!」とかありったけの知識を、笑顔で、子ども達に話したのを覚えています。
(でも、現在、中2になった長男の記憶は、『ママに怖い顔で「夜中にお出かけすることになったら、ママの手を絶対離しちゃダメ!」って言われた』と言うものでした。)
帰宅困難者となった夫がいない今、0歳の三男をおんぶ、2歳の次男を抱っこ。
4歳の長男は手をひいて歩かせることになるだろう…
漠然と考えていた私は、ひたすら、長男の荷物に名前を書いたのを覚えています。
もし、手が離れてしまったら…とにかく、すぐに見つけられる状態にしておかなきゃ…
テレビでは、気仙沼で起きていた津波火災の様子が繰り返し流れていました。
急がなきゃ、名前書かなきゃ、何故かその記憶は鮮明にあります。
東日本大震災では、私たちが住む流山は大きな被害はありませんでした。
福島第二原発の影響で、ホットスポットと呼ばれる地域として、数年間は見えない何かに怯える時間はありましたが、
家も職場も家族も失うことはなかった。でもそれは、単にラッキーだっただけなのです。
その後、NKPのメンバーになって防災のことを勉強し、考えるようになり、人との繋がりや、ご近所さんとの関わり方を改めて考えるようになりました。
そして、自治会の世帯アンケートに一言、「子どもが小さいので、有事の時は、手を貸していただきたい」と書きました。
誰かに助けて欲しいと言えることは、自分にとっての最大の防災なのだと気がついたのです。
わたしが思う災害への備えのひとつは、ご近所さんや職場の方とのコミュニケーションです。
どこで被災するか分からないからこそ、自分や家族にとって身近な人と共助しあえることが大切なのだと思います。
自宅で被災したら。
職場で被災したら。
外出先で被災したら。
その時、夫やパートナーは?
子ども達は?
ぜひ、日頃からのコミュニケーションを大切に「助け合える」関係を築いておくことをオススメします。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて④
メンバーのてりたまです。
東日本大震災から10年。
当時、生後10ヶ月だった長女は10歳。
その後わが家には次女、三女が誕生し、彼女たちも7歳、4歳…地震がどんなものかを理解している年齢になりました。
わたしは彼女たちの成長とともに、私たち流山子育てプロジェクトが年2回提唱している「防災エコナイト」の実践を積み重ねていくことを大切にしています。
・真っ暗な中で過ごしてみる(大好きなテレビは見られません)。
・カセットコンロと鍋で炊飯。非常食も食べてみる(お水はどのくらい必要かな)。
・簡易トイレを試してみる(汚さずにできるかな)。
・防災リュックの見直し(今の自分たちに必要なものかな、新聞紙スリッパや下着はサイズアウトしていないかな)。
・災害が起きたときのことを話し合う(学校、幼稚園での対策はどうかな、どこが安全かな)。
などなど、特に長女はやればやっただけ「あの時こうだった」と印象に残っているようで、そこからさらに工夫してみようと考える姿勢が見られはじめてきていて、嬉しいです。
流山子育てプロジェクトで「乳幼児の家庭向けの防災減災」に目を向けた活動が始まったのが、2012年。わたし自身はこの年流山に転入してすぐご縁があってメンバー入りしたので、仲間の存在は本当に心強く、こどもを連れながらの会議や勉強会を通して多くのことを学んでこられたと思います。
今まで発行した「私にもできる 防災減災ノート in 流山」、「多言語の防災ガイドブック」、「流山市の小学生と考えた防災カルタ」はメンバーが積極的に意見交換をし、有識者の方々にもアドバイスを頂いて作成したので、素晴らしいものを産み出せたという達成感を得ることができました。
また、それらはゴールではなくてスタートであり、「いろいろな視点を想像する力」を持ちながら活動を長く続けていくことの大事さも実感しています。
できることをコツコツと。
今後は私たちの活動やそれに伴う想いを次の世代へ伝えていくことにも力を入れていきたいです。
東日本大震災から10年。
当時、生後10ヶ月だった長女は10歳。
その後わが家には次女、三女が誕生し、彼女たちも7歳、4歳…地震がどんなものかを理解している年齢になりました。
わたしは彼女たちの成長とともに、私たち流山子育てプロジェクトが年2回提唱している「防災エコナイト」の実践を積み重ねていくことを大切にしています。
・真っ暗な中で過ごしてみる(大好きなテレビは見られません)。
・カセットコンロと鍋で炊飯。非常食も食べてみる(お水はどのくらい必要かな)。
・簡易トイレを試してみる(汚さずにできるかな)。
・防災リュックの見直し(今の自分たちに必要なものかな、新聞紙スリッパや下着はサイズアウトしていないかな)。
・災害が起きたときのことを話し合う(学校、幼稚園での対策はどうかな、どこが安全かな)。
などなど、特に長女はやればやっただけ「あの時こうだった」と印象に残っているようで、そこからさらに工夫してみようと考える姿勢が見られはじめてきていて、嬉しいです。
流山子育てプロジェクトで「乳幼児の家庭向けの防災減災」に目を向けた活動が始まったのが、2012年。わたし自身はこの年流山に転入してすぐご縁があってメンバー入りしたので、仲間の存在は本当に心強く、こどもを連れながらの会議や勉強会を通して多くのことを学んでこられたと思います。
今まで発行した「私にもできる 防災減災ノート in 流山」、「多言語の防災ガイドブック」、「流山市の小学生と考えた防災カルタ」はメンバーが積極的に意見交換をし、有識者の方々にもアドバイスを頂いて作成したので、素晴らしいものを産み出せたという達成感を得ることができました。
また、それらはゴールではなくてスタートであり、「いろいろな視点を想像する力」を持ちながら活動を長く続けていくことの大事さも実感しています。
できることをコツコツと。
今後は私たちの活動やそれに伴う想いを次の世代へ伝えていくことにも力を入れていきたいです。
【リレーブログ】 東日本大震災から10年によせて③
メンバーのひろりんです。
2011.3.11 普段より遅い14:30頃に「昼寝の時間よ」と子どもに声をかけ、厚めの掛け布団をかけ2人で横になりました。
子どもはすぐに寝ることもなく、私が先に疲れてウトウトしました。
そして14:46 床が揺れ(あぁ地震だ)と思いながらも、そのまま横になっていましたが、いつまでも揺れている、いつもと違う?と思った時には横揺れが激しくなり、目が完全に覚め、布団を頭からかけました。
揺れは収まるどころか強くなり、台所から食器が落ち割れる音がしました。初めて地震で「助けて」と声をあげ、死を意識したのを覚えています。
そんな時でも子どもは熟睡していました。どうして良いか分からず、ただただ布団の中で恐怖を感じていました。その日は一晩中、鳴り響く防災無線や緊急地震速報の音が怖く眠れませんでした。
この日、私は夕飯時に、子どもと近所のファミレスに向かいました。台所が散乱して作る気になれなかったから。冷静に考えれば、もってのほかですが、今になれば「正常化バイアス」がはたらき、普段の生活と何ら変わりないと思いこんだ行動をしたのではないかと思います。
あの日を境に、それまでもマメに取り組んでいた防災に、更に取り組むようになりました。
食器棚の全てに滑り止めシートをつけました。同じく本棚も、一番下の子どもの絵本の棚以外は、全て滑り止めシートをつけました。取りづらくなりましたが、部屋の間取りの関係で私と子どもは、作り付けの本棚の前しか寝る場所がないため対策をしました。
また、再び腕時計をつけるようになりました。それまでは時間を見るのは携帯になっていましたが、いつ停電して携帯が使えなくなるかわからないからです。
そして当時はオムツや水など買うのにあちこち探し回るのも、子どもを連れて行かねばなりませんでした。放射性物質の放出に怯えながら、買い物の不便さを感じていたことや、ガソリンが残り少なかったために車を使わず自転車を押しながら、子どもと歩いたことも覚えています。
内心では不安でしたが、子どもに悟られないよう、買い物はいつも楽しくすることにしていました。
それから数年が経ち、流山子育てプロジェクトに参加し、防災について知識をより深めていくことができました。
自分では十分と思っていた防災品は不備だらけだったこと、知らないことだらけだったこと、知れば知るほど不足しているのでは?と参加当初は不安が勝ることも多かったですが、それらは日を重ねるにつれて適度な不安に変わりました。
油断せず常に適度な不安を持つことで、防災に取り組めると私は感じています。
あれから10年の間に、大型台風、昨年はコロナ禍での自粛生活がありましたが、備えているため慌てることはありませんでした。
先日の大きな地震は10年前を思い出しましたが、慌てずに済みました。自分がどう動くべきか考えることができました。
「いつ来るか分からないことのために備えるなんて!」
「関東に大きな地震が来たら、みんな助からないでしょ!」
と言う声も聞きます。
そうかもしれません。
しかし、そうでなかったら。。。
被害に遭われた人や被災地の皆様の辛く苦しい体験を無駄にしないよう、10年の節目を前に、これからも防災に取り組んでいきたいと改めて誓いました。
2011.3.11 普段より遅い14:30頃に「昼寝の時間よ」と子どもに声をかけ、厚めの掛け布団をかけ2人で横になりました。
子どもはすぐに寝ることもなく、私が先に疲れてウトウトしました。
そして14:46 床が揺れ(あぁ地震だ)と思いながらも、そのまま横になっていましたが、いつまでも揺れている、いつもと違う?と思った時には横揺れが激しくなり、目が完全に覚め、布団を頭からかけました。
揺れは収まるどころか強くなり、台所から食器が落ち割れる音がしました。初めて地震で「助けて」と声をあげ、死を意識したのを覚えています。
そんな時でも子どもは熟睡していました。どうして良いか分からず、ただただ布団の中で恐怖を感じていました。その日は一晩中、鳴り響く防災無線や緊急地震速報の音が怖く眠れませんでした。
この日、私は夕飯時に、子どもと近所のファミレスに向かいました。台所が散乱して作る気になれなかったから。冷静に考えれば、もってのほかですが、今になれば「正常化バイアス」がはたらき、普段の生活と何ら変わりないと思いこんだ行動をしたのではないかと思います。
あの日を境に、それまでもマメに取り組んでいた防災に、更に取り組むようになりました。
食器棚の全てに滑り止めシートをつけました。同じく本棚も、一番下の子どもの絵本の棚以外は、全て滑り止めシートをつけました。取りづらくなりましたが、部屋の間取りの関係で私と子どもは、作り付けの本棚の前しか寝る場所がないため対策をしました。
また、再び腕時計をつけるようになりました。それまでは時間を見るのは携帯になっていましたが、いつ停電して携帯が使えなくなるかわからないからです。
そして当時はオムツや水など買うのにあちこち探し回るのも、子どもを連れて行かねばなりませんでした。放射性物質の放出に怯えながら、買い物の不便さを感じていたことや、ガソリンが残り少なかったために車を使わず自転車を押しながら、子どもと歩いたことも覚えています。
内心では不安でしたが、子どもに悟られないよう、買い物はいつも楽しくすることにしていました。
それから数年が経ち、流山子育てプロジェクトに参加し、防災について知識をより深めていくことができました。
自分では十分と思っていた防災品は不備だらけだったこと、知らないことだらけだったこと、知れば知るほど不足しているのでは?と参加当初は不安が勝ることも多かったですが、それらは日を重ねるにつれて適度な不安に変わりました。
油断せず常に適度な不安を持つことで、防災に取り組めると私は感じています。
あれから10年の間に、大型台風、昨年はコロナ禍での自粛生活がありましたが、備えているため慌てることはありませんでした。
先日の大きな地震は10年前を思い出しましたが、慌てずに済みました。自分がどう動くべきか考えることができました。
「いつ来るか分からないことのために備えるなんて!」
「関東に大きな地震が来たら、みんな助からないでしょ!」
と言う声も聞きます。
そうかもしれません。
しかし、そうでなかったら。。。
被害に遭われた人や被災地の皆様の辛く苦しい体験を無駄にしないよう、10年の節目を前に、これからも防災に取り組んでいきたいと改めて誓いました。
【リレーブログ】東日本大震災から10年によせて②
はじめまして!メンバーのえみりんです。
2011.3.11、あの日私はイベントのお仕事で幕張メッセにいました。
しかも当時は妊娠5ヶ月。初めての妊娠中に、初めて経験する大きな地震。
会場内では展示物が落ちて割れる音が鳴り響き、煙が出ているところもありました。
外に出ると液状化現象が起こってるところもあり、遠くの方では火災が起きたのか黒い煙がもくもくと、、、、
不安で不安で仕方ありませんでした。
その日は当然イベントは中止となり、早く帰宅しようとクライアントさん達とタクシーに乗るも歩いている人の方が早いくらい全く進まず、途中で見かけたドン・キホーテでは自転車が飛ぶように売れているのを見ました。その光景だけでも何だか恐ろしかったです。
途中でタクシーを降り、帰るのを諦めて近くの居酒屋さんに入ることに。
お店に入った途端、目に飛び込んできたのは、テレビ。
『、、、、????これどこの国?、、、、え?』
そこで初めて、日本が大変なことになってると気付きました。
もう混乱しすぎてすぐに家族に連絡を取ろうとするも繋がらない。
みんな都内にいるけど、無事なのか、まったく状況を把握出来ず、ただただ不安に押し潰されそうでした。
なんとか連絡がとれてみんなの無事を確認ができましたが、連絡が取れないって本当に不安になりますよね。
この災害がきっかけで出来たのが『LINE』なんだそうです。
そして今、LINEには『AI防災協議会』というのがあり、2020年1月17日に、神戸市が開催した「神戸防災のつどい 2020」で、一般市民も参加して「LINE を用いた情報共有実証訓練」を実施したそうです。
今もまだ様々な地域で訓練を実施し、
2022年度末には全員が使えるように進めているとの事。
このLINE社が今開発してる『AI防災避難支援システム』は簡単にどんなものかと言うと、『一人ひとりの状況にあわせた避難支援をしてくれるツール』。
例えば、大雨であれば今の雨量だけでなく、近隣のハザードマップや予定している避難所の混み具合、他の人が入力した情報など、たくさんの最新情報を加味して、避難支援をしてくれるそうです。
使い方も簡単で、そのLINE公式アカウントと友だちになり、生活場所、災害時の予定避難先、避難予定の警戒レベルなどを設定しておくだけでOK。
あとは、AIが現在地や避難行動の危険度などを総合的に評価し、ユーザー毎にカスタマイズされた、より適切な避難の提案をはじめ、現在地と周辺の避難場所をまとめたハザードマップ、避難に適した服装・持ち物など様々な情報を提示してくれるそうなので、すごいですよね!
また、万が一予定していた避難所への到着が困難な場合は、別の避難所を選択するように促し、混み具合や開設状況も伝えてくれるみたいです。
さらに、自分が見つけた被害状況を位置情報や写真や文字で投稿することも可能で、AIがどこでどのような種類の災害が発生しているかを整理し、LINE上で他の人にも地図として確認できるようになるとのことなので、これは少しでも早く使えるようになって欲しいですよね(´・ω・`)!
私が防災のことについてしっかり考えるようになったのは流山子育てプロジェクトに入ってからなのでまだ日は浅いですが、やはり何も準備をしてないのと、少しでもしてるのとでは、気持ち的にもまったく違うなと痛感しております。
そしてこうやって近所に助け合える仲間ができたことはとてもとても心強い。
これからもみんなで情報共有して知識をつけ、いざという時にパニックにならないように備えたいと思います。
2011.3.11、あの日私はイベントのお仕事で幕張メッセにいました。
しかも当時は妊娠5ヶ月。初めての妊娠中に、初めて経験する大きな地震。
会場内では展示物が落ちて割れる音が鳴り響き、煙が出ているところもありました。
外に出ると液状化現象が起こってるところもあり、遠くの方では火災が起きたのか黒い煙がもくもくと、、、、
不安で不安で仕方ありませんでした。
その日は当然イベントは中止となり、早く帰宅しようとクライアントさん達とタクシーに乗るも歩いている人の方が早いくらい全く進まず、途中で見かけたドン・キホーテでは自転車が飛ぶように売れているのを見ました。その光景だけでも何だか恐ろしかったです。
途中でタクシーを降り、帰るのを諦めて近くの居酒屋さんに入ることに。
お店に入った途端、目に飛び込んできたのは、テレビ。
『、、、、????これどこの国?、、、、え?』
そこで初めて、日本が大変なことになってると気付きました。
もう混乱しすぎてすぐに家族に連絡を取ろうとするも繋がらない。
みんな都内にいるけど、無事なのか、まったく状況を把握出来ず、ただただ不安に押し潰されそうでした。
なんとか連絡がとれてみんなの無事を確認ができましたが、連絡が取れないって本当に不安になりますよね。
この災害がきっかけで出来たのが『LINE』なんだそうです。
そして今、LINEには『AI防災協議会』というのがあり、2020年1月17日に、神戸市が開催した「神戸防災のつどい 2020」で、一般市民も参加して「LINE を用いた情報共有実証訓練」を実施したそうです。
今もまだ様々な地域で訓練を実施し、
2022年度末には全員が使えるように進めているとの事。
このLINE社が今開発してる『AI防災避難支援システム』は簡単にどんなものかと言うと、『一人ひとりの状況にあわせた避難支援をしてくれるツール』。
例えば、大雨であれば今の雨量だけでなく、近隣のハザードマップや予定している避難所の混み具合、他の人が入力した情報など、たくさんの最新情報を加味して、避難支援をしてくれるそうです。
使い方も簡単で、そのLINE公式アカウントと友だちになり、生活場所、災害時の予定避難先、避難予定の警戒レベルなどを設定しておくだけでOK。
あとは、AIが現在地や避難行動の危険度などを総合的に評価し、ユーザー毎にカスタマイズされた、より適切な避難の提案をはじめ、現在地と周辺の避難場所をまとめたハザードマップ、避難に適した服装・持ち物など様々な情報を提示してくれるそうなので、すごいですよね!
また、万が一予定していた避難所への到着が困難な場合は、別の避難所を選択するように促し、混み具合や開設状況も伝えてくれるみたいです。
さらに、自分が見つけた被害状況を位置情報や写真や文字で投稿することも可能で、AIがどこでどのような種類の災害が発生しているかを整理し、LINE上で他の人にも地図として確認できるようになるとのことなので、これは少しでも早く使えるようになって欲しいですよね(´・ω・`)!
私が防災のことについてしっかり考えるようになったのは流山子育てプロジェクトに入ってからなのでまだ日は浅いですが、やはり何も準備をしてないのと、少しでもしてるのとでは、気持ち的にもまったく違うなと痛感しております。
そしてこうやって近所に助け合える仲間ができたことはとてもとても心強い。
これからもみんなで情報共有して知識をつけ、いざという時にパニックにならないように備えたいと思います。